思い込み

先日「永楽善五郎展」に行ったことを書きましたが、実はその時
気付いたことがありました。

美しい器の数々を見ながら、何だかとっても懐かしかったのです。
なぜだろう?と、よくよく考えてみると、記憶は子供の頃までさかのぼり
その時 「あっ」とすべてが腑に落ちました。


母の壷


実家は日本料理の店をしていたので、父母は時々 京都まで器の
買い付けに行っていました。
その時、私も度々連れていってもらいました。
子供には永楽も乾山も分かりませんが、その頃から本物を見ていたのです。

お店の名前は忘れてしまいましたが、目の前に並べられる美しい器たちを
ただただ綺麗だな〜と、眺めていました。
夏には夏の、冬には冬の、小さな器の中に四季がありました。
器に限らず画廊や展示会にも連れていってもらいました。
(但し、大人しくしていないと叱られましたが・・・)
そんな環境で育ったことが今の私を作ったのだなぁ、とつくづく思います。


母の漆の器


商売屋ですから母が忙しくて、誕生日もクリスマスもなかったし、遊園地にも
動物園にも家族で行ったことがなかった。
一時は両親を恨んでいたこともありました。

でもこの歳になって、普通の子供が行かない様な所へ随分連れていってもらって
たのだと遅ればせながら気付いた訳です。
感謝こそすれ、恨むなんて申し訳ないことをしました。


母のガレのランプ


本当に今頃になって気付くなんて遅すぎますけど気付かないままで
死んじゃうよりは良かったかな?

「不幸な子供時代だった」と思い込んでいたのが、実はまったくその逆だったと
分かって一番嬉しかったのは私自身ですから。
過去の否定的な思い込みって、自分で自分を狭い所に閉じ込めているみたいなものですね。


*写真は母が大切にしていた物たちです。





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思い出

今から35年くらい前のことですが、母があるクリニックに通っていて
待合室であの方と一緒になることがありました。
何度か顔を合わせるうちに、言葉を交わすようになり、ある時
あの方が足を引きずって歩く母に素敵な杖をプレゼントしてくださいました。
ちょっとその辺では見ないお洒落な華奢な杖でした。

母は感激して店に、あの方をご招待しました。
喜んだのは板場です。
任侠映画なんて興味ありませんから、私はあの方のそういう映画を観た
ことがありませんが、板長や板さんたちは、みんな大ファンでした。
寒い中、板場は全員店の外でひと目あの方に会いたいとお帰りになるのを待っていましたっけ。
あの方は誰にたいしても同じように接していました。
そんなところもきっとファンが多い理由の1つなんでしょうね。

母も病状が悪化してそのクリニックには行かなくなりましたが、何度か
お見舞いが届いていたような記憶があります。

あの方の回りでは、そんな事はよくあることなのでしょう。
奢らず、気取らず、さりげなく気配りの出来る方。

高倉健さん、心からご冥福をお祈りします。


紅葉





1枚の写真


夏の思い出

ここがどこだかも覚えていないが、母と一緒の珍しい写真。
たぶん私は7、8歳、母は37、8歳くらいだろう。
当時としてはモダンな装い。
母はドットのワンピースにパナマ(?)の帽子かしらん。
私は綿のチェックのワンピース。
確か、白地に水色のチェックだったような・・・。
素肌に着るサッパリとした綿の心地良さは今でも覚えている。

店を切り盛りする母はいつも忙しくてなかなか甘える時間が
なかったが、お盆の頃は店も暇になり、夏休みの旅行には
必ず家族で出掛けた。
熱海とか伊東とか・・・そんな旅の1枚ではなかろうか。

1日、母と一緒にいられて嬉しかった。

遠い遠〜い昔の記憶。
元気だった頃の母との貴重な1枚。
懐かしくも切ない、蜉蝣(かげろう)のような思い出。




MAMA'S PAJAMAS

漆のブローチの作家である山梨の姉は、とても器用な人で
だいぶ前になるが、彼女が作ったパッチワークの敷物を
貰ったことがある。

とっておいた布の切れ端でパッチワークし刺繍を施した、
その25センチ角の敷物は、私の一番の宝物。


敷物

この中に使ってある布は、私が彼女にプレゼントしたワンピースの
切れ端や、亡くなった母のパジャマも入っている。
もったいなくて、花瓶敷きなんかとして使えない。


ままの
「MAMA'S PAJAMAS」と刺繍してあるのが、見えるだろうか。
こんなシャレも好きだなぁ・・・。


思い出が一針一針縫い込まれた、こんなプレゼントは心に沁みる。

時々、箪笥の引き出しから出しては、ジーッと眺めるのだが、
忘れていた記憶が蘇って しばしタイムスリップする。

私の中で貰った時よりも今の方がずーっと価値が大きくなっているのは
年月のせいか、年齢のせいか。

山梨の姉とは事情があって子供の頃から別々に育った。
彼女の存在を知ったのは私が15才の時。
もう1人、姉がいると知って単純に嬉しかった(両親が二人とも
再婚なので、私には姉が4人もいる)

彼女も波瀾万丈の人生を送ってきたが、二人の息子もそれぞれ
家庭を持ち、ダンナ様と山の中で静かに暮らしている。
今の暮らしぶりは、とても彼女に合っていると思う。
遠いのでそうしょっちゅうは会えないが、いつも大切に想っている。

今さら恥ずかしくて面と向かって言えないが、
T子姉さん、ありがとう。





七五三

先日、写真の整理をしていたら懐かしいものが
出てきた。
私の七五三の時の写真だ。


IMG_0003.jpg


思えばキチンときものを着たのはこれが初めてだったかも。
今でもこのきものは覚えている。
淡いブルーとピンクのぼかしに、金の鶴が飛んでいた。
頭に付けた大きな白いリボンの上にも鶴が付いていた。

母のきものも覚えている。
黒地に赤紫の絞りで唐草模様の大胆な柄。
黒いきものに黒地の帯。
お祝いの時に黒に黒は普通、選ばないだろう・・・。
しかしこれが、当時のモダンだったのか?
母はこの時、37歳くらい。
個性的といえば、個性的なコーディネートだ。
店も軌道に乗って、女将として自信もついてきた頃だった
かもしれない。
リウマチもまだ発症せず、母にとって一番幸せな時だったかも。

ところで、お参りは店の近くの日枝神社だったが、私の
娘達も七五三は同じ神社だった。
不思議なのは、長女の婿どの。
住まいが近い訳でもないのに、やっぱり同じ日枝神社だったと
いうのだ。
婿どののお母様に伺ったことがある。
「なぜ、日枝神社だったのか?」と。
返ってきた答えは「あら、何でだったかしら?あんまり昔の
ことで、忘れちゃったわ」

日枝神社の取り持つご縁とは言わないが、二人が二十数年たって
結ばれたのは事実。
生まれた時から赤い糸で結ばれていたのかも・・・?




プロフィール

朋百香(tomoko)

Author:朋百香(tomoko)
1955年埼玉県生まれ東京育ち。
幼少時から学生時代は、水彩、
油絵を学び、結婚後は子育てを
経てのち植物画に魅了され、
個展やグループ展にて発表。
イギリスのフィンドホーンへ
の旅をきっかけに自己の内的
プロセスを描写する、様々な
素材を用いた独自のミクスト
メディア作品制作に入る。
現在は和紙に墨、アクリルで
墨アートを表現している。
神奈川県在住。

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